愛媛新聞・マスコミ時評(1989.10〜 1990.03)

愛媛新聞から依頼を受けて(友人の紹介)川之江JC理事長という肩書き(?)で
約半年間掲載された原稿です。生まれて初めて、原稿料なるものを貰いました。
源泉分込みで1万円くらいだったと思います。もちろん、源泉分はを差し引かれていました。
締め切り前になると、材料捜しや何やかやで思い悩んだことを思い出します。
それでも結構、自分自身は楽しんでいたところもあったようです。
これから先、同じ事は二度とないでしょうから、記念すべき出来事だったのかも知れません。
今になってみると、ワープロの前で四苦八苦していたのが懐かしくさえ感じます。


愛媛新聞 [マスコミ時評]・・・ ■ 新聞週間情 報生活白書議会開設から100年選挙と教育

『新聞週間』 (1989.10.16)

十月十五日からの新聞週間を前に、今年の新聞週間標語が発表された。
選ばれた標語の中には、「確かさ・勇気・見識」に加え 「未来・指針」 などの言葉が随所に見られる。
日和見でなく常に勇気をもって事実を正確に伝えると言うことはもちろん、独自の意見や主義主張を明確にし
将来を展望する先駆者たれ!という熱い応援の声であろう。
新聞に対する読者のイメージや期待感が、そのまま言葉になって表れている。
一方、それらを選んだ新聞協会自身の視点や方向性も反映されているようで大変興味深い。
 
今年も県下では、野外音楽祭・マリーンスポーツをはじめ多彩なイベントやお祭が休みなく続き
短い夏もカンペキに終わった。最近各地で行われるイベントや祭りは地域の特色を前面に押し出し
他所とは一味違う点をアピールするものが大半で、様々な工夫を凝らしていて大変楽しい。
単なるお祭だけでは物足りなくなったのだろうか。

共通して言えるのは、活力と魅力ある地域づくりや人づくりのための、一つの手段として地域イベントを
位置づけていることである。違いがあるとするならば、そのまちの人が何を考え、誰を相手に何をしたいのか
と言う基本コンセプトが明確かどうかという点であろう。しかし、無理をして作っても「ものまね」はあくまでも
ものまねで、本物となるまでには、気が遠くなるくらい地道な積み重ねが要求されることは覚悟しなけならない。
ただ、楽しそうな人の周りには、必ず楽しい人が集まるはず。あせらず、ゆっくりと、楽しみながら続けて欲しいものだ。

夏のイベントが一段落すると今度は秋に向けてシンポジウムが続々と開催される。
そんな中で、二十一世紀に向けて地域の活性化策を考える県内七十市町村交流シンポジウムが「わがマチの
近未来を探る」と題し九月十二日に開催され、県内から大勢の人達が集まり会場は盛り上がったようだ。
『地域おこしへ県民の英知結集』という見出しで、久万町・生名村・城川町の実践報告と、金沢の出島氏
総領町の安藤氏という持ち味の異なる二人の問題提起の内容も合わせて報道されていた。
文字通り「顔」を持ったまちを代表する「顔」が揃った。

地域活性化策を考えるには、乱暴といえば乱暴なやり方で立地条件・規模・産業基盤が異なれば活性化へ
向けての戦略戦術もおのずから違う。事例報告の中から自分のまちに応用できるコトをどれだけ見出せたか
またどれだけの人とめぐりあうことができたかがキーポイントで、それぞれのまちが現在置かれている位置を
再確認する作業がまず必要となってくる。

交流はあくまでも手段でしかない。
交流を通して、お互いの違いを理解することがスタートで、受信することも必要だが、それと同じくらいの
エネルギーが発信するためには必要になってくる。お互いの理解は受信と発信の両方が備わってこそ
より深いものとなる。

県内市町村職員を網羅した上で、一般からの参加者とともに交流をはかると言う第一段階の目的は充分に
果たせたと言えるだろう。シンポジウム開催が最終目的では決してないはずである。
次には、発信源の「顔」をもった人達に、逆に発信できる「新しい顔」を持ったまちや人の登場が期待される。
そのためには、参加者自身が今回の交流をいかに活用していくか。また、主催者側がどのようなフォローをして
行政の枠を越えたゆるやかな結びつきを提案してゆけるかが「鍵」のような気がする。

『ふれあい・交流という名のつくイベントが、こうあちこちで起こされると、かえって交流やふれあいが
不足しているのではないかと心配になってくる。交流欠乏症を病む患者のようだ(取材最前線)』
交流は与えられるものではなく、自らが自分自身のために求めていくものではないだろうか。
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『情報』 記者の視点で異なる (1989.11.20)

ヒトモノカネジョーホージカン−人・モノ・金・情報・時間。企業経営においてまた地域経営においても重要な
五要素と言われている。人・モノ・金に情報と時間を加えたのは誰であったか知らないが的確な指摘だと思う。
情報化社会という言葉を目や耳にしない日はないのだが、情報とは一体何なのか。情報化社会とはどんな社会を
言うのだろうか。

ある雑誌に「情報には(1)情報内容(2)情報処理(3)情報通信の三種類があり、これらが集まって作りあげられている
のが情報化社会である」とあった。
また情報活動とは、単なる事実の伝達と説明で終わるのではなく「(1) 注意を引く (2) 興味を覚えさせる (3) 欲求をおこさせる (4) 記憶させる、そしてその結果 (5) 行動をおこさせる原動力になる」のでなければ意味がないそうだ。

コンピュータや通信技術が発達し、情報処理の能力が格段に進歩するとともに、情報の持つ価値が増大した結果、都市の基盤整備も その情報化に対応することを迫られることになった。インテリジェントビルとかテレポートなど、まさに情報の工場である。 しかし、まちは人間の生活の場であり、高度情報化社会の目標は、一人一人の「人」の生活の「質」を高めるとともに精神的な 「豊かさや満足感」をもたらすことに求められるべきであろう。設備や施設自体をそのまちの眼目にするのでは全く意味はないと思う。

さて、最近のニュースの中から分からないことがひとつ。
情報の内容ではなく情報処理の面で「情報と金」が妙にかかわった事件が起きた。
『揺れ動く本音と建前。一円落札の波紋!』 という見出しで大きく取り上げられるのかと思って注目していたのだが案外各紙とも冷静で 一般庶民の感覚とは違うみたいだ。これくらいのことは日常茶飯事なのだろうか。疑問疑問。
入札をする方もする方だが、それを問題なしと言い切る自治体の感覚も理解できない。
モノの時代からソフトの時代へと言うのは掛け声だけで 「やはりモノが最優先で、ソフトの部分はおまけです」と宣言した影響は大きいと思う。

東予市の若者が、自分自身の経験の中から「本当に知りたい情報を得るための手段としてネットワークを広げる必要があります。 しかし、そのネットワークは待つ姿勢では得られません。自分自身のフットワークをもってする以外に、これといった方法は見つかりませんでした」 と言ったのが大変強く印象に残っている。
またニュースキャスターの宮崎緑が対談の中で「限られた時間の中で送り出す側にいるとどの情報をピックアップして、どれを切り捨てるか によって見えてくる事実が変わってきます。状況判断というのも情報いかんによって間違えるかもしれないし大変難しいですね」と語っていた。
コツコツと情報を集める人、玉石混交の情報中から選択する人、それを短時間に的確に整理する人、またそれらを武器に攻めていこうとする人。 色々な立場で又役割を持って情報産業に携わっている人の多さに改めて驚いてしまう。

二十一世紀はソフト化・サービス化の時代であり、それを支える重要な要素は人と情報であると言われて久しい。
知りたいという欲求は限りないものだが、星の数ほどある出来事全部がそのまま我々に伝わってくることはなく、その殆どはマスコミという フィルターを通し形が整えられ、きれいな情報として伝えられる。
それだけに第一線で取材する記者の視点や感性によって同じ題材であってもアプローチの仕方次第で大きく変わってくるはずだ。しかし、 我々は興味があるところだけのつまみ食いで、安直に受け流すことに慣れてしまっているのも否めない事実であろう。

そんな中で、私は『取材最前線』や『風』欄が好きだ。
短い記事の向こう側には、どんな顔をしているかは見えないが本音で喜んだり怒ったり悲しんだりしている生の「人」が
いるような気がして。
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  『生活白書』本当に豊かになったか (1989.12.25)

恒例の 『今年の重大ニュース』が各紙に登場し始めると、一年もそろそろ終わりに近づいたなと思う。
並行して私的な出来事も整理してみようかと、いつも思うだけで除夜の鐘を聞く。
元号も昭和から平成に変わり、1990年の足音がもうそこまで聞こえ始めた。
新と旧・東と西・男と女という様々な要因が交錯し、国内では首相が三人も誕生するという騒々しさであった。
今年は豊かな良い年だったと言いたいのだが 「豊かさ」 や 「ゆとり」とは一体何なのかさえ分からないまま、実感できないまま年を越しそうである。

『89年度国民生活白書』が閣議に報告され了承を得た。
“人生70万時間、豊かさの創造”という副題がついている。働き過ぎが豊かさを阻害しているそう で、経済力に見合った生活の豊かさを実感できないギャップを埋めるためには、労働時間の短縮が不 可欠であるとし、それを実現するためには、できるだけ多くの人が労働に公平に参加するワークシェ アリングを確立する必要があると提唱している。

GNP世界第2位・労働時間は欧米に比べて200から500時間長い。年率4−5%の実質成長率など色 々な統計数値を駆使しているが、数値に振り回されてはいないか。数値だけが万能ではないはずだ。
製薬会社のコマーシャルソング「24時間戦えますか!ビジネスマン〜」の歌が耳から離れないのは 何故だろう。
短時間のうちに世界でも有数の豊かな国になったと言われる日本だが、本当だろうか。

自動車・大型家電製品などに代表されるアメリカの豊かな生活や文明を初めて知ったのは、白黒テレ ビから流れるアメリカ産ホームドラマを見た時だったのかも知れない。学校から帰って来た子供が、 大型冷蔵庫から大きな瓶に入った牛乳をなみなみとコップに注ぎ飲み干す。それも当たり前のように。 それに比べ我が家に配達されてくる牛乳瓶のなんと小さかったことか。

戦後、日本の高度経済成長を支えてきた世代の人たちは、多分それらを横目で見ながら、がむしゃらに 「豊かさを作る」ことに挑戦してきたのだろう。しかし、モノの豊かさは飽和点に達すれば 行き詰まってしまい、我慢の低成長時代がしばらく続いた。そして今、また景気は大型の上昇傾向にある。

その原因の一つに情報化社会の到来を上げる人が多い。
狭い国だけにその伝達速度はきわめて早く、機器の開発に関しては言うまでもない。またたく間に全 国に広がり、そのキーとして東京が膨張してしまった。
成長する都市に、人や金(経済活動の基地)が集まるのは過去も現在も同じで、首都圏への一極集中 も、当然と言えば当然なのかも知れない。モノがあり余るほど集中するのだから、きっと都会に住む 人は豊かなのだろうと思っていたら、どうも全部が全部そうではないらしい。
原因は色々とあろうが、もう効率論からの発想では突破口は見出せず、人は、より人間らしい暮らしの 方を求めているという時に、生活白書では、まだ効率論から抜け出せないでいるとは言えないだろうか。
価値感の転換は、すでに起きつつあると思うが、効率と人間らしさとの綱引きは、永遠のテーマなのか も知れない。

電通が発表した「生活大予言1990」によれば、来年のキーワードは、仕事・遊び・消費といった生 活全てを楽しむ
『唯楽論』だそうで、自分自身で楽しい仕事や遊びを考えて実践した経験豊富な人が 尊敬を集める『楽歴社会』がやってくるらしい。今年吹き荒れたマドンナ旋風も、よく見れば憎めない オバタリアンと紙一重。ロマンスグレーのナイスミドルもオジンと呼ばれることもある。予言はあく までも予言だが、やはり気になる。

今年一年、自分自身で考えたり実践したことが、どれだけあったかを謙虚に反省しながら、また同じ言 葉でしめくくろう。『来年こそ、豊かな良い年となりますように!』
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『議会開設から100年』選挙の意味問う視点で (1990.01.29)

『長崎市長撃たれる』の報は内外に大きな衝撃を与えた。
それは単なるテロ事件としての重大さだけではなく、気に入らない意見を述べる者には、いかなる手段 を用いても
それを阻止するという言語道断な行為に対する憤りでもある。
どのような内容であれ、言論の自由を守るのが大原則であり、論じ合ってこそお互いに考えを深め合え るはずだ。
市長という公職に在る者として今回の発言に至るまでには、その影響度も含め人一倍熟慮し た上で、市長の信念に基づいて述べられたはずである。
言葉が足りないから行動でそれを表現したまでと言うのは、社会の約束事を無視したことに他ならず 力(暴力)による沈黙の強要であり、決して許されるものではない。

さて、90年代の政治と国民生活を占う総選挙が走りだし、告示を前に既に終盤戦とも言われている。
また今年は日本に議会が開設されて百年を迎える。政治を国民のものにと願った人たちの期待と挫折が 織りなすドラマであったとも言われている。議会創設に努力した先人の思いを振り返り、新しい世紀へ 向けて今一度、国会本来の使命や果たすべき役割を考え直したい。

テレビ・マスコミ等で選挙に関する報道が頻繁になっているが趣が違ったもの二つ。
一つはNHK特集番組 「英国議会政治腐敗防止の軌跡」 「影の内閣」 の放送である。
議会政治の手本とも言われる英国議会の歴史と現在の様子が大変分かりやすく紹介されていた。
政治家は一般官吏よりも大きな権力を持っているのだから、より厳しい規制や罰則が不可欠であるとい う事を、政治家自身が決めた点に注目したい。そこには本当の意味での民主主義を勝ちとってきた民族と 民主主義を与えられた民族との根本的な違いを見る思いがした。

二つ目は「国会新世紀・帝国議会開設から100年」(朝日 1/3 )である。
ハンスHベアワルド氏の “大切な論議表に出ない” 坂田道太氏の “フェアな闘いの土壌を” のコメント のほか「永田町の常識」や「分かりにくい政治」に対し警鐘を鳴らしている。
なかでも色川大吉氏の 『国会の論議は、なぜこれが問題なのかを知らせることに大きな意味がある。 政策法律の専門家は官僚で、本当の権力は官僚にある。(中略)党議決定に従う数のための議員はいらない。野党は党議が優先 され、自民党は派閥が優先され、政治家個人の思想は第二義的なものになっている。そのことが政治家 の質を非常に低くしている』 に思わず頷いてしまった。

今、各紙で大々的に伝えられているのは、どの馬が優勢で勝ちそうだ、どの厩舎の馬が何頭ゴールイン しそうだと言うことばかり。それが選挙の情勢予測として紙面を独占する。馬?自身どんな状態なのか、 このレースの持つ意味はどこにあるのかなどの視点に立ったものは少なく、渦中の人と一緒になって当 り馬を予想するのに血道を上げている。そんな中にあって、タイムリーで良い企画だったと思う。

有権者が政治家に対して持っているイメージは、あてにならない・ずるい・もうかる職業。望ましい 政治家像は第一に人と言いながらも、地元の面倒見のよい人。さらに大半は金がもの言う政治に怒りつ つも行動せずと言う。寂しい気がしないでもないが、表舞台の論戦とは別に、国対政治を軸とした裏の 根回しや取引で法案が処理され、賛成か反対かを決めてから国会で審議に入るという不条理を繰り返し、 最後には数が勝負とばかりに押し切ってしまう。そんな政治決着には、うんざりだ。

国際的視野を持ち、政策能力と実行力を兼ね備えた人材というキャッチフレーズをよく耳にするが、国 会は開くが、リーダーたる首相の施政方針演説さえ有無を言わさず阻止してしまうやり方と、長崎市長 の口を封じようとテロに走った者と、どこか似ているように思う。 あまりにも『公』より『私』が先行し過ぎてはいないだろうか。

「千戴一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことあらば、現在の政治家は死してもその罪を 滅ぼすことはできない」と、第二次大戦直前に反軍演説をした斉藤隆夫代議士は政界から抹殺された。
しかし、今求められているのは信念を貫き通す彼のような人材かも知れない。 大義名分の定かでない選挙ではあるが、新旧や過去のしがらみにとらわれず、今回も微々たる権利を行使したいものだ。
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『選挙と教育』国の将来考える英知を (1990.03.05)

「大山鳴動して鼠一匹」の例えの如く総選挙も終わった。
消費税・リクルート・農政という内向きの問題が争点となり、与野党とも国益より地元益が優先で、政治 理念は議論の対象とはならなかった。政策がないのは、やはり理念がないためか、はたまた、理念など では票にならないことを、プロの政治家先生たちは肌身でご存じだからなのだろうか。

選挙結果をふまえ、各紙とも懸案事項を整理し提示するとともに、各国特派員が 「カネによる政治」
「日本にはモラルは存在しない」 などと言う内容の批判報道をしたことも、あわせて伝えていた。
テレビの討論会も盛んに行われ、NHKなどでは、三点セットに関して各党の主張を簡潔明瞭に比較して みせた。
選挙が終わった後で、そんなことをして何になるのだろう。答案用紙が返され自己採点する受 験生に、教師が物知り顔にポイントを説明する様子を思わず思い出してしまった。

自民党も勝ったとは言えず、政権担当をする党として不安を感じさせた。社会党や野党も勝ったとは言え ず、またそれ以外の選択をできなかった有権者も、勝ったとは言えないのではないだろうか。これまで豊 かな生活実現のために国を実際にリードしてきたのは、政治の力ではなく民間の努力が主であり、政治家 はただ無為無策のまま、それに乗っかってきただけと言うのは言い過ぎだろうか。

しかしこれからは、ますます政経不可分の時代になり、幻の頼みの綱?である通貨も政治本位制となる のは明らかである。富国貧民の日本から、さらに貧国貧民の日本にならないためにも、将来を真に方向づ けられる人材の育成と発掘が望まれる。
『不満ながら現状肯定。政治の実情見抜く民意』 と言う新聞の見出しや 『日本人は今や経済主義になっ て、道徳や倫理を意に介さなくなってきた。道義を失った国民は衰退する』 という鐘紡伊藤会長のコメ ントを、新選良は真摯な態度で受け止めて欲しい。

ある雑誌に自由主義国家として活力を保つ条件として、ルール違反は厳罰に処するという司法システム の確立と、機会均等の二点を上げていたが、やはり努力や能力が応分に報われる社会と言うことではない だろうか。効率から公正、公平への価値転換が必要ではないかと思う。

さて、暫くの間マスコミは選挙一色だったが、その片隅に今年もまた大学合格者が、毎日のように掲載 されていた。
春は訪れただろうか。
四年間の私大で1200万円、入学時経費国公立大で185万円が、地方から首都圏の大学に送り出す時 に要する平均費用らしい。自分自身も親にそうしてもらった一人なのだが空恐ろしい。
消費税の使途として、老齢者対策や福祉へというのも理解できないこともないが、それをもって大学まで の教育費を無料にすると言ったとしたら、どれくらいの人が納得してくれるだろうと、ふと考えてしま った。

「親が苦労して学費をつくっても、国の助成金が減って私立大の授業料は上がる一方。それなの に、今度の選挙で教育問題に触れる候補者が一人もいない。教え子がせっかく入った大学を、 授業料が高いわりには講義がお粗末すぎるととやめて帰ってきた。 大学に行かないと生きていけないわけではないのに」と、洩らした新田高校教諭。

何の反抗もできず、大人の決めたシステムに従って努力した若者の到達点としては、余りにも貧し過ぎは しまいか。
アメリカの衰退の原因は教育にあるという。しかし、それに一早く気付いたのもアメリカで ある。膨大な時間も金もかかるだろうが、これはアメリカの将来への投資であるという基本理念に、ゆる ぎはないようだ。さらに日本の頭脳が次々と日本を離れていくのは何故だろうか。

全て社会が悪いなどと言うつもりは、さらさらないが、生活を取り巻く数多くのシステムは人の英知で作り上げてきたもの。それならば、そのシステムを改善していけるのも、やはり人間しかいないと思う のだが。
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